沿 革
 
襄陽は古代には東濊、三国時代には高句麗の翼峴県(別名伊文県)、統一新羅時代は 守城郡<令県>と呼ばれ、その後高麗時代と朝鮮時代を経て襄陽郡と改称された。1919年5月に杆城郡が廃止されると同時に土城面と竹旺面が編入され、1999年1月9日には襄陽郡条例1635号に従って県南面新津里が仁邱1里 斗昌市邊里)に編入されることにより現在1邑5面124里から成り立っている。
本来‘襄陽’は、中国の湖北省にある漢水沿いにある地名であった。この地の美しい自然と地理的環境などが中国の襄陽と似ており、ここに住む人々の気質は自然の摂理に培われた強さが潜在し、士大夫の文献も素晴らしく風習が善美であるため、他の村より立派であるとして襄陽と名付けられたという。 峴山、 漢水 (南大川) 巫山、鹿門 (林泉) 太平樓 などの名称も中国襄陽の名称が由来となっていると伝えられている